校長ブログ
日本文学ブーム
2025.07.09
教科研究
7月9日
今回は、文学と教育にまたがる、しかも、今の日本の教育にとって極めて示唆に富む話題をお届けします。それは、日本文学の世界進出を支える翻訳者という存在と、彼らを育てる場がどのように機能してきたのかということです。
英国の文学賞「国際ブッカー賞」の最終候補に、川上弘美さんの『大きな鳥にさらわれないよう』が選ばれました。訳者は米田雅早(アサ・ヨネダ)さん。惜しくも受賞は逃しましたが、このニュースに接したとき、着実に基盤として築かれつつある「共創の仕組み」も垣間見れました。
日本文学の海外展開は、もはや偶然の所産ではありません。その背景には、10年以上にわたって築かれてきた翻訳家育成の取り組みがあります。なかでも注目すべきは、日本財団とイースト・アングリア大学(英)が2010年から行ってきた「日本文学翻訳ワークショップ」です。このワークショップでは、10人ほどの参加者が1週間かけて、一つの日本文学作品を英訳します。しかもただ訳すのではなく、日本人作家本人やベテラン翻訳家を交えて議論を重ねながら進めるのです。
それまで一人で翻訳をしていたと語るのは、『コンビニ人間』の訳者として知られる竹森ジニーさん。彼女はこのワークショップで、他の人と話しながら訳すことで、世界が広がったそうです。作家リーダーとして参加した多和田葉子さんや松田青子さん、翻訳家リーダーを務めたUCLAのマイケル・エメリック氏らが伝えたのは、翻訳は創造であるという感覚。作家の意図を汲み、言葉の奥にある感情や文脈を、異なる文化の中で再構成する。この営みを、孤独ではなく仲間と共に挑む。ここに、教育と文化の新しい形が見えるのです。
興味深いのは、このワークショップを起点に、翻訳者同士のネットワークが築かれ、それが今や翻訳のインフラのようになって機能している点。竹森さん、米田さん、そして川上弘美や西加奈子作品の訳者であるアリソン・マーキン・パウエルさんらによる翻訳者集団「Strong Women, Soft Power」は、日本の女性作家に光を当てる活動を続けています。
実際、翻訳者が自ら出版社と連携し、作品を企画・発信するケースも増えています。これまでのように翻訳されるのを待つ時代から、自ら発信する時代への転換です。翻訳者自身が「私の好きなもの」を堂々と推し、それが世界の文学地図を塗り替えていくのです。これは、教育活動が子どもの心に届き、行動を変える原動力となることにも通じるものがあります。
ワークショップは現在、早稲田大学とUCLAの共同プロジェクト「柳井イニシアティブ」によって再開され、かつての受講生たちがリーダーとなり、新たな翻訳者を育てています。辛島デイヴィッド教授は、「良い形で翻訳家のエコシステムができている」と述べられています。
文学は、ただ読むものではなく、つなぐもの。言葉と言葉、人と人、国と国。教育もまた、ただ知識を与えるのではなく、関係をつくり、世界を広げていくもの。そう考えると、翻訳者たちの挑戦が多くのヒントを与えてくれているのは事実です。日本文学が今、世界で"ジャンル"として根を張り始めています。そこには、言葉を信じ、人を信じ、つながりを信じる人たちの営みがあるのです。